映画を観る前に知っておきたいこと

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名匠ファルハディが現代イランをえぐる

投稿日:2017年5月26日 更新日:

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ある夜の闖入者 ──
たどり着いた真実は、憎悪か、それとも愛か ──

教師エマッドとその妻ラナは、小さな劇団に所属し俳優としても活動する仲の良い夫婦だった。しかし、エマッドの留守中に妻が侵入者に襲われ、その事件をきっかけに夫婦は緩やかに理性をかき乱されていく。

イランの名匠アスガー・ファルハディが『別離』(11)以来となる二度目のアカデミー外国語映画賞を受賞した緊迫の心理サスペンス。アメリカを代表する劇作家アーサー・ミラーの舞台『セールスマンの死』を劇中に配置し、時代の変化に取り残された戯曲と急速に近代化が進むイランの社会状況を重ね合わせながら、夫婦の葛藤をスリリングに描き出す。

主演はファルハディ作品の常連にして、イランの国民的俳優シャハブ・ホセイニ。夫エマッドが抱える怒りや不安、悔恨の情を表現し、2016年カンヌ国際映画祭で主演男優賞を獲得。ファルハディの脚本賞とのW受賞となった。

予告

あらすじ

教師のエマッド(シャハブ・ホセイニ)とその妻ラナ(タラネ・アリドゥスティ)は、共に小さな劇団に所属する仲の良い夫婦だった。上演を間近に控えたアーサー・ミラー原作の舞台『セールスマンの死』で夫婦役を演じるため稽古に勤しんでいたある日、二人は老朽化するアパートから強制退去を余儀なくされ、劇団仲間が紹介してくれた別のアパートに移ることに。

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© MEMENTOFILMS PRODUCTION – ASGHAR FARHADI PRODUCTION – ARTE FRANCE CINEMA 2016

引っ越しから間もなく、舞台の初日を迎えた夜に事件は起こった。ひと足早く劇場から帰宅したラナが、エマッドの留守中に何者かに襲われてしまったのだ。この事件を機に夫婦の生活は一変。包帯を巻いた痛々しい姿で病院から帰宅したラナはめっきり口数が減り、怒りを抑えきれないエマッドは犯人捜しに躍起になった。

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© MEMENTOFILMS PRODUCTION – ASGHAR FARHADI PRODUCTION – ARTE FRANCE CINEMA 2016

ラナに警察に行くことを説得しようとしたエマッドだったが、表沙汰にしたくない彼女は頑なにそれを拒み続ける。次第に二人の感情はすれ違い、夫婦仲は険悪になっていく。やり場のない苛立ちを募らせるエマッドは、犯人が前の住人だった女性と関係がある人物だという確証を掴み、自力で捜し出すことを決意するが……

映画を観る前に知っておきたいこと

2011年アカデミー賞で外国語映画賞を受賞した『別離』とはまた異なる形で、名匠アスガー・ファルハディが再び現代イランの病巣を暴く。二度目となる同賞獲得という快挙を成し遂げた本作では、主人公夫婦が出演する『セールスマンの死』の舞台シーンを劇中に配置する新たな試みによって、映画的な暗喩を巧みに交えて描かれる。

1950年代アメリカの社会風刺が色濃い舞台を、敢えてサスペンスフルな物語と並走させる構成が、観る者にイランの今を強烈に意識させる。リアルな社会情勢に裏打ちされた脚本故、筆舌に尽くしがたい登場人物の心の襞(ひだ)もまた現実味を帯びていく。『セールスマンの死』なくして、この映画は完成しなかっただろう。

戯曲『セールスマンの死』

今は亡きアメリカを代表する劇作家アーサー・ミラー。1953年の作品『るつぼ』では、17世紀末のマサチューセッツ州を舞台にした魔女狩りから、当時ハリウッドなどでも問題になっていた赤狩り(共産主義者を排除する運動)に対しての批判を描くなど、彼は近代化や社会変容による人間疎外をテーマにした作家として知られる。

映画の中に挿入される舞台『セールスマンの死』もまた、ミラーらしい一つの時代を批判した作品である。かつての敏腕サラリーマン、ウィリー・ローマンが寄る年波と得意先の引退などで成績が下がり、過去の栄光にすがりながら最後は自ら命を絶ってしまうという物語の中には、親子の不和、競争社会への敗北、家庭の崩壊などが描かれる。

この舞台が公演されていた1950年代は、ちょうどアメリカが資本主義社会へと移り変わり、人々が物質主義的な価値観に傾倒していった時代だった。金銭やモノに豊かさを求める急激な時代の変化が、主人公ウィリーのような誠実に生きてきた人間に理想を見失わせた結果、『セールスマンの死』で描かれたような悲劇がアメリカ社会のそこかしこに転がっていたのである。

ファルハディは資本主義の残酷さを示したこの戯曲を、古い慣習が根づいたまま急速に近代化が進む現在のイランに重ね合わせる。現代的なライフスタイルと伝統的な価値観の狭間で生きる夫婦を襲った突然の悲劇。そこにあるエマッドとラナそれぞれの苦悩は、厳格なイスラムの教えにある“潔癖さ”によって招き寄せられる。周囲の目や評判を気にする文化が故、妻は精神的に追い込まれ、夫は復讐心を駆り立てられていく。

夫婦にとって現代的な寛容さが失われゆく中、復讐の先にエマッドが手にするものは妻の名誉か、自らの名誉か。いずれにせよ、そこにはもうラナの望む理想の夫の姿はない。現代イランにおける理想の喪失。ファルハディは、その本質が時代の変化にあることを、『セールスマンの死』によって浮かび上がらせる。

-ミステリー・サスペンス
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