銀行強盗の為に街にやってきた男と、そんな人生に憧れた引退したフランス語教師。出会うはずのなかった二人の奇妙な絆を描いたヒューマンドラマ。
個人的にはフランスの名匠と言われるパトリス・ルコント監督の作品の中で、特に好きな作品のひとつ。主演のジャン・ロシュフォールとジョニー・アリディの哀愁丸出しのほっこりするやり取りが暖かいような切ないような、奇妙な気持ちにさせてくれる映画だ。
自分とは正反対の生き方に憧れる二人の出会いは、一体何をもたらし何を捨てさせるのか―。
- 製作:2002年,フランス・ドイツ・イギリス・スイス合作
- 日本公開:2004年4月10日
- 上映時間:90分
- 原題:『L’Homme du train』
Contents
- 1 予告
- 2 あらすじ
- 3
感想・批評
- 3.1 ルコント作品の中で一番好きな映画
- 3.2 こんなに愛らしい爺さんはいない
- 3.3 切ないやら暖かいやら
- 3.4 歳をとってから見れば・・・
- 3.5 ラストシーンの理解と解釈について
予告
あらすじ
強盗を働くために列車に乗って街にやってきた中年男ミランは、引退したフランス語教師のマネスキエと出会う。薬屋でたまたま買った薬が発泡錠だったのを見て、マネスキエはミランを「私の家で飲めばいい」と彼を屋敷に招き入れる。お喋りなマネスキエをいぶかしく思いながらも、水をもらって薬を飲み、ミランは屋敷を後にした。しかし閑散期のホテルはどこも休業中。仕方なく踵を返し、ミランはマネスキエの家に宿泊させてもらうことになった。
お喋りなマネスキエは、久方ぶりの話し相手を喜びよく喋った。最初は全く取り合わなかった無口なミランも、徐々に彼の話に興味を示しだす。
マネスキエは、ミランの革ジャンをこっそり着てみたり、頼み込んで銃を撃たせてもらったり。方やミランは、断片しかしらないアラゴンの詩を教えてもらったり、内緒でマネスキエの生徒の勉強を見たり。
二人は、自分の人生とは正反対の互いの生き方惹かれていくかのように交流を深めていく。しかし、刺激的な日々は長くは続かない。初老を迎えたマネスキエは、心臓のバイパス手術を控え入院の準備をしていた。そしてミランにもまた、相棒との計画がある。それぞれの人生に帰る日は近づいていた―。
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ルコント作品の中で一番好きな映画
本当に幅広くたくさんのジャンルの映画を撮っているパトリス・ルコントだが、彼の作品の中でも僕はこの『列車に乗った男』が一番好きだ。
というわけで、今回は具体的にどんなところが好きなのかという様なことをつらつらと語ろうと思う。
こんなに愛らしい爺さんはいない
プライドや意地で飾らない、何かに純粋に憧れる人間とはこうも愛らしいものか。
彼らには“自分自身へのこだわり”というものがまるで感じられない。「自分なんてクソ以下」と言わんばかりの卑屈っぷりだが、マネスキエはそれをユーモアとして表現するので嫌らしさはない。方や、ミランはひたすらに寡黙で自分を表現しようとはしない。
ミランのそういうところにマネスキエは“純粋な憧れ”を覚えるのだが、クソがつくほど不器用なミランとしては、最初はいぶかしんでいたマネスキエの誰とでも楽しく話せる(ように見えた)器用さ、普通さに憧れた。
この構図によって「正反対の人生を送った対照的な二人の男たち」と紹介される作品である。しかしその見方は大きくはずしてはいないものの、おそらく正しくはない。
というのも、僕はこの映画の一番重要な人物は初老の男・マネスキエだと思っている。
この爺さん、警戒心がまるでない少年のようなジジイである。少なくともミランにとってはそうだった。そんな純粋な憧れを向けられて、警戒心丸出しのアウトロー・ミランは徐々に心を許していく。そしてマネスキエの人生にもだんだんと興味を持つようになっていく。
そう考えると、この映画でよく語られるミランを表現する言葉、「普通に生きたかった男」が的を得ているかというと、必ずしもそうではない。どちらかというと「マネスキエの人生に憧れた男」である。「年は取るほどに輝きを増すものだ」という言葉は慰めではなく、きっとミランにはマネスキエが積み上げてきたものがとても輝いて見えたのだ。だからワケ有り中年男・ミランは、初老の男・マネスキエの人生に憧れた。
漠然と自分の中にあるイメージに憧れたマネスキエに対して、ミランはなんとなくイメージされる“普通の人生”に憧れたのではない。
マネスキエは、30年間越しの憧れの男性像であるミランに“憧られた”のだ。そのことが彼にとって、どれだけの救いと勇気になっただろうか。
ミランにとってもそれは同じだ。取るに足らないと思っていた自分の人生に漠然とでも“憧れてくれる男”は、彼にとって不思議な愛らしさを持っていたんだと思う。
そんな二人のやり取りは、いわんやめちゃくちゃほっこりする。敬意や絆、または友情とも何かが違う“純粋な憧れ”が紡ぐ人間関係は、二人が二人とも尋常ならざる愛らしさを振りまいてくるので、この映画を見ている時の僕は気持ちが悪いぐらいニヤニヤしっぱなしである。
その愛らしさを以ってして、この映画は「老い」という人生最大にして共通のテーマにある種の救いを見せてくれる。「悪い事ばかりじゃない」と思える。少なくとも僕にとってはそうだった。
それがこの映画がルコント作品の中で『列車に乗った男』が一番好きな理由のひとつである。
切ないやら暖かいやら
ほっこりする二人のやり取りを、終始何とも言えない暖かい気持ちでニヤニヤと見つめていることは既に言った通り。
しかし、憧憬の道とは儚い夢の様なものである。そして何もかも正反対の二人の道に共通しているのは老い、死。
悲劇でも喜劇でもなく、淡々と微笑ましくてどうしようもなく切ない。やばい切ないでも何だこの暖かさは・・・
さすが感情の起伏を描くことを生涯のテーマとしてきた(本人談・超訳)ルコントと言うべきか、暖かいやら切ないやらでもう胸中がワケの分からないことになってしまう。こんな気持ちになれる映画は他にないぞ!
歳をとってから見れば・・・
歳をとって見ればまた違う見方が出来る。本にそういうところがあるのと同じ様に、映画にもそういうところがある。
この映画を楽しめた人も、またはそうでない人も、「歳をとれば今とは違う見方が出来るかもしれない」ということが分かりやすく感じられる。
歳くって見れば違う見方が出来るのは、言ってみれば当然だ。極端な話をすれば、目に見える全てのものがそうだと言える。しかし、何気にその感覚を改めて感じさせてくれる映画はそんなに多くはない。
この映画が大好きな僕に限って言えば、中年を迎えたとき、初老を迎えたとき、改めてどんな風に見えるのかが今から楽しみだったりする。
一応まだ若いと言われる年齢ながら、図らずも既に老後の楽しみを1個ストックしている自分が変に滑稽にも思えるが、『列車に乗った男』が好きな人には多分めちゃくちゃ共感してもらえると思う。
それもまた本作の魅力のひとつだ。
ラストシーンの理解と解釈について
特によく語られているのは、ラストシーンの解釈についてだろうか。「いまいち理解出来ない」という意見にはとても共感を覚える一方で、僕がこのラストシーンに意味を見出すとすれば、あえてあえての余白といったところ。
この最後の余白があることで、二人の男が出会い心を交わした物語の上に、“理解”ではなく“解釈”が成り立つのである。そして重要なのは“理解”は“解釈”を助けるためのものでもあるということだ。
逆もまたしかり。“理解”と“解釈”とは常に同じ輪の中で完結していくものだが、ラストシーンにはその輪を崩す狙いがあったのではないかと考えている。なので、解釈は出来ても理解は無理だろうというのが個人的な見方だ。
ラストシーンに映し出される二人の間には漠然としながらも確かな絆めいたものが描かれているが、その曖昧な表現にはやはり戸惑いを覚えるだろう。そして、そこにより深く観想を巡らせる余地が生まれるのだ。
二人の関係は一体何だったのか、これは救いの物語なのかそれとも悲劇なのか、見つめ合っているように見える二人は一体何を思っていたのか。あの時のあいつの台詞はこういう意味だったんじゃないのか。あの時こいつはこう思っていたのではないか―。
この余白は、物語の最後に地に足の着かないフワッとした余韻を残して幕を引く。そして僕はこのフワッと感がどうやら嫌いじゃないらしい。いや、もうむしろ好きだ!
そんなこんなでこの作品は、数ある映画の中でも特に大好きな作品のひとつである。