それでも季節はめぐり来る。
「人生の素晴らしさを教えてくれる」「衝撃のラスト!」そんなよく見掛ける謳い文句も、この映画にこそ相応しい。イランの巨匠アッバス・キアロスタミによる最高の人生讃歌。
1997年カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作品。
Contents
予告
あらすじ
イランの首都テヘラン近郊、砂と誇りの荒れ地を何かを探すように四輪駆動車で辺りを彷徨う中年男バディ。
彼は金に困っている者を車の助手席に乗せては、遠くに町を見下ろす小高い丘の一本の木の下に掘られた穴まで無理矢理に連れてゆき、奇妙な仕事を依頼する。
「朝6時にここで僕の名を2度呼べ。バディさん、バディさん。僕が返事をしたら、手を取って穴から出せ。車のダッシュボードに20万ある。それを君にあげる。返事がなかったらシャベルで20杯土をかけてくれ。」
最初に助手席に乗せたのはクルド人の若い兵士だった。軍から支給される給料は少なく、その青年は生活に困っていたが、バディの願いを聞き入れずその場から逃げてしまう。
次はアフガン人の神学生だった。コーランの教えを信じる彼は「自殺も人殺しと同じ」とバディを説得しようとするが、聞く耳を持たない。
最後に乗せた老人バゲリは、嫌々ながらも難病の子供の治療費のためにバディの仕事を引き受ける。しかし、バディの心が変わることを信じて自分の経験を語って聞かせる。
映画を観る前に知っておきたいこと
僕にとっては最高の1本だが、それが他の誰かにとってもそうかと言われればそうではないかもしれない。
映画は「人生に絶望した中年男バディが自殺を手伝ってくれる相手を探す」というとてもシンプルで解り易い物語だが、そこに内包されるメッセージを汲み取れなければ淡々としたつまらない作品に映ってしまうかもしれない。そういう意味では難解な映画の部類に入る。
しかし映画に込められたメッセージを共有することができれば、間違いなく心に残る1本になるだろう。
ラストを汲み取れれば必ず心に残る1本になる!
そうなるためには、この映画のラストシーンを「衝撃のラスト!」と感じることができるかどうかに懸かっている。今まで誰も見たことがないようなその手法に驚かされるかもしれないが、自分なりの解釈ができた瞬間にそれは最高の人生讃歌となる。
「素晴らしい映画と出会える幸運をもっとたくさんの人に……」そんなコンセプトで日々映画を紹介しているが、僕が本当に誰かに見てほしい映画は、レンタルすらされていないのが現状だ。
そんな中、『桜桃の味』は日本でも評価が高く、都会でなら出会える可能性はある。DVDも探せばまだ見つかるが、プレミアで高額になっている。田舎暮らしの僕は苦肉の策でVHSビデオで手に入れた。
こうして紹介することで、少しでも再発売される流れができてくれれば嬉しいのだが……
解説
映画の中にある様々な描写から作品が持つメッセージを紐解くことで、そこにある芸術性や本質が見えてくる。この記事を読んでくれた人の中で、問題のラストシーンが「衝撃のラスト!」になる手助けができれば幸せだ。
バディは本当に自殺するつもりがあったのか?
バディは本当に自殺するつもりなどなかったのではないだろうか。
もちろん、そこには老人バゲリとの出会いによる心境の変化はあるが、物語の始めからバディは内心では自殺を止めてくれる相手を探しているように見えた。
どうにもバディは本気で自殺を考えているにしては面倒な死に方を選択しているし、手伝ってくれる相手も誰でも良いという訳ではなかった。クルド人少年兵のような純粋さを持った相手や、アフガン人神学生のような自殺を否定する相手を自ら選んでいる。
これはあくまで深層心理での話だ。老人バゲリの経験談はバディのそんな想いを素直に引き出してくれるきっかけとなった。
結局最後は自ら掘った穴に横たわり目を閉じるバディだが、老人との約束であるこの場所にはタクシーで向かっている。
なぜ自分の車ではないのか?
クルド人少年兵には車のダッシュボードに自殺を手伝ってくれた時の報酬が入っていると言っていた。約束の場所にタクシーで向かったのは、バディは最終的には自殺を考え直していたことを匂わせる。
テーマありきで描かれるこの映画の本質とは?
また、映画の中でバディが自殺する理由が一切描かれていないことも重要だ。
これは「死」ではなく、あくまで「生きることの喜び」が映画のメッセージであることを示している。物語としてはバディが自殺する理由は重要な部分だが、このメッセージを伝えるためには取り立てて重要ではない。
高額な報酬を用意できることからも自殺の理由が金銭問題でないことは推測できる。「生きることの喜び」というメッセージを伝えるために必要なのは、他人が痛みを理解できないバディだけの問題ということだけだ。他人に解決できない問題だからこそ、それを抱えたままのバディの心の変化だけを描くことができる。
これで映画を観たすべての人にとって「生きることの喜び」は共感できるメッセージとなっている。自殺の理由や悩みは人それぞれだが、生きるということだけはすべての人に共通しているのだから……
ラストシーンでもそれまで紡いできた物語の結末を放棄し、「生きることの喜び」を感覚的に伝えることだけを目的とした手法がとられている。
この映画の本質は、バディが「生きることの喜び」を見い出すまでを温かく優しい眼差しで映した人生讃歌なのだ。
パルム・ドール作品らしい芸術性
本作はテヘラン近郊の砂と誇りだけの荒れ地をバディが車で走るシーンが大半を占めている。そのビジュアルは決して映像美とは言えないが、映画を象徴する風景だ。
これは映画のタイトルが含まれた唯一のセリフ「すべてを拒み、すべてを諦めてしまうのか?桜桃の味を忘れてしまうのか?」に説得力を与える上でも重要なビジュアルとなっている。本当に美しい風景ではなく、砂と誇りだけの荒れ地から見える風景を美しいと感じることに「生きることの喜び」は隠されているのだ。
しかし映画のラストシーンは一転、この砂と誇りだけの荒れ地に緑が生い茂っている。そこには「生きることの喜び」を感覚的に伝える映像美がある。
これは映画全体を砂と誇りだけの荒れ地で描いたからこそ、そう感じるのであって、他の映画でいう映像美とは一線を画すものだ。
ラストシーンの映画史に残るような斬新な手法が生み出した映像のコントラストは、作品に芸術性をもたらしている。
ラストシーンの解説
「衝撃のラスト!」そんな良く見掛ける謳い文句も、この映画にこそ相応しい。
ただ、アッバス・キアロスタミ監督のメッセージを汲み取れなければ「衝撃のラスト!」には成り得ない。
これまで紡いできたバディの物語の結末を一切放棄し、突然映画のメイキングシーンのような撮影風景へと切り替わる。ここには一体何が込められているのだろうか?
ここで映画の最大の見せ場であるこのラストシーンについて解説したいのだが、言葉よりも感覚的に捉えることが重要なシーンなのでどこまで伝えられるか……
ラストシーンはただ撮影風景に切り替わるだけでなく、砂と誇りだけだった荒れ地に緑が生い茂っているという演出が加えられる。ここには新緑による生命の喜び、即ち「生きることの喜び」という人生讃歌が込められている。決して言葉で伝えないこの演出は、観客の心に直接触れるように訴えかけてくる。
この“観客を強制的に持っていく圧倒的な力”こそがこの映画の凄さだ。
新緑を生命の象徴としたなら、撮影風景は何を意味しているのか?
ここには監督アッバス・キアロスタミ自身の人生讃歌があるように感じる。映画監督にとって、撮影とは日常的な風景でありながら、最も尊いものでもある。
あのラストシーンはアッバス・キアロスタミ監督にとっての「桜桃の味」だ。
映画というのは、監督の実体験に基づくものの方がよりメッセージ性が強くなる傾向がある。本作の場合であれば、監督自身が自殺を考えた経験があるならそれは成立する。しかしアッバス・キアロスタミ監督は、誰も想像しないようなやり口で映画を監督自身のものにしている。
この映画にある“観客を強制的に持っていく圧倒的な力”というのはアッバス・キアロスタミ監督のエゴイスティックなまでの創造性が生み出している。
誰もが共感できるメッセージを内包しながらも、それを表現する手段は誰も想像できない程自由だ。
感想
どうして僕がこの映画をそんなに推すかというと、人間が生きていく上で、最も重要で普遍的なメッセージを持った作品だからだ。
これまでに自殺を考えたことがある人も決して少なくはないはずだ。誰でも悩みを抱えていて、時には絶望するのが人間というものだ。
僕はそんな時期を過ごした経験からいつしか、「すべてを拒み、すべてを諦めてしまうのか?桜桃の味を忘れてしまうのか?」という老人バゲリの言葉が心に響くようになっていた。
人は何気ない日常を尊いと感じられなくなった時、それは心が病んでいる証拠だ。自殺を考えるような状態は、どんどん自分で視野を狭くし何でも悪い風に捉えてしまう。
反面、人間というのは心の持ちようで意外と簡単に問題と向き合えるようになったりもする。ただ、悪い方にいる時は自分ではそれがどうしても理解できなくなる。
そんな時は空を見上げて欲しい。美しい太陽!美しい風景!美しい緑!老人の言葉ではないが、心を正常に戻してくれるヒントは近くにあることを忘れないでほしい。
僕は今でも時々人生にうんざりする。それはもう自殺を考える程ではなくなったが、多忙な日々に追われ、流されながら、まだ見失うことがある。
そんな時、『桜桃の味』は大事なことを思い出させてくれる。
アッバス・キアロスタミ死去……
そして僕が一番好きな映画
2016年7月4日、がんの治療のために滞在していたパリからアッバス・キアロスタミ監督の訃報が届いた。享年76歳だった。
僕が『桜桃の味』に出会ったのはもう随分前で、数年振りに映画を見直したのはつい先日のことだった。しかも昨日は、妻に一番好きな映画を訪ねられ、『桜桃の味』について一人で熱く語っていた。
辛い時期に救われた映画だった。アッバス・キアロスタミ監督の死は、僕の中で『桜桃の味』が重要な映画だったことを再認識させてくれた。そして映画が持つ力も……
僕は感謝の気持ちでこの記事を書いている。インターネット社会となった現代において、小さな歯車の一つとして『桜桃の味』が一人でも多くの映画ファンに届けられればという想いで。
素晴らしい映画と出会える幸運をもっとたくさんの人に……
作品データ
原題 | 『Ta’m-e-Gīlāss』 |
---|---|
製作国 | イラン |
製作年 | 1997年 |
公開日 | 1998年1月31日 |
上映時間 | 98分 |
キャスト
キャスト | ホマユン・エルシャディ |
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アブドルホセイン・バゲリ | |
アフシン・バクタリ |
監督・スタッフ
監督 | アッバス・キアロスタミ |
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脚本 | アッバス・キアロスタミ |
製作 | アッバス・キアロスタミ |
編集 | アッバス・キアロスタミ |
たった今、監督が亡くなられたことを知りました。
中学生の時に観た、桜桃の味。
30を過ぎを過ぎた今でも、折にふれ心によぎる作品です。
「桜桃の味を忘れてしまうのか?」
その言葉は、14の私の心に深く落ちてきました。
素晴らしい映画をに出会えた幸運に感謝しています。
コメントありがとうございます。
多感な14才の頃にこの映画に出会えた幸運と、キアロスタミ監督のメッセージを受け取れた感性は羨ましいです。
いくら名匠と謳われても、日本ではその訃報に気付くことすら難しいのが現状ですね。
昔ビデオ屋でVHSの「黄桃の味」をレンタルして観て、感動しました。
久しぶりにまた観たいと思ったのですが、そのビデオ屋はなくなり、他の店にも
黄桃の味は置いてませんでした。
だから、このサイトを見て、内容を思い出せて良かったです。
本当に近所のレンタルビデオ屋で出回るようになればって僕も思います。
(プレミアで高値だけど、DVD買おうかな)
こんにちは。
TSUTAYAの発掘良品で、この作品をみつけて、よさそうだなと思いレンタルしました。
今夜帰宅してからになりますが、
観るのが楽しみです(*´∀`)
私もTSUTAYAの発掘良品で借りることができました。
ずっと観たかったのでうれしかったです。
書かれている内容とは別に、記事の誤字が気になりました。
「砂と埃の荒れ地」の「埃」が「誇り」になっています。
「妻に一番好きな映画を訪ねられ」は「尋ねられ」ですね。
それとコメント欄で「桜桃の味」を「黄桃の味」としている方がいますが、
桜桃はチェリー、さくらんぼです。黄桃だとピーチで、意味が変わってしまいます。
生前、淀川長治さんがおすすめ映画と言っていたので見ました。当時多感な私はとても感動しその後の人生に大きく影響しました。
数年後テレビ(昔の12チャンお昼の映画)
で見ても、令和の時代になりアマゾンプライムで改めて見ても素晴らしいです。
いつか子供にも教えたいと思っています。
まず、最初に指摘しておきます。「埃」とすべきところが、全部「誇り」になっていました。これは明らかな間違いです。気になりました。
確かに、この映画は、自殺幇助者を探す主人公と、その幇助者候補として主人公にピックアップされる3人との会話を通して、キアロスタミの死生観が描かれているワケですが、自殺幇助者候補の3人が、主人公と同じイラン人ではなく、クルド人の兵役者、アフガニスタンから来た神学生(顔つきがモンゴロイド系なので、おそらくハザラ人でしょう)、それからトルコ人の老人(おそらく移民)であることも気になりました。宗教的禁忌を強め、文化的に自殺しようとしているイランという国が、クルド、アフガン、トルコといった周辺の国の人々に、その自殺を止めてくれと言っているようにも見えたのです。