映画を観る前に知っておきたいこと

【サム・ペキンパー 情熱と美学】自らを破壊した天才映画監督

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サム・ペキンパー 情熱と美学

圧倒的な演出スタイルと斬新な編集方式で、それまでの映画演出の様式を一変させ、“血まみれのサム”と恐れられ、“バイオレンスのピカソ”と賞賛されたバイオレンス映画の巨匠サム・ペキンパーの孤高の生涯を描いたドキュメンタリー映画。生誕90周年、没後30年についに日本で公開される。

監督を務めたのは、全580ページ・1050枚の写真を掲載したペキンパーの伝記とも呼べる「PASSION&POETRY SAM PECKINPAH IN PICTURES」(日本未出版)を執筆した、映画史家であり映画製作者でもあるマイク・シーゲル。彼は、この映画を製作するために情財をなげうって情熱だけで撮り上げた。ペキンパーの肖像を映画史家として真摯に、総括的に捉えた稀有な作品に仕上げている。

  • 製作:2005年,ドイツ
  • 日本公開:2015年9月下旬
  • 上映時間:120分
  • 原題:『Passion & Poetry: The Ballad of Sam Peckinpah』

予告

あらすじ

法律家の父が支える家父長制の厳格な家で少年期を過ごし、商業主義との対立や薬物に苦しみながらも、59歳で亡くなるまで14本の作品を残したサム・ペキンパー。

南北戦争時代、北軍兵の頭皮を剥ごうとした南軍兵への復讐を描いたデビュー作『荒野のガンマン』、時代に取り残されたアウトローたちの壮絶な最後を描いた映画史に燦然と輝く傑作『ワイルドバンチ』、スティーヴ・マックイーン主演の男と女の逃走劇『ゲッタウェイ』、戦争の狂気と哀しみを描きカンヌ映画祭国際批評家連盟賞を受賞した『戦争のはらわた』など、革新的なスローモーション撮影によるバイオレンス描写で“血まみれのサム”という異名を持ち、シネフィルや映画製作者の間ではまさに映画の教科書・神話のような存在だが、同時に、撮影所の商業主義やプロデューサーとの絶えることのないトラブルの多さから、鬼のような怒れる存在とされてた。サム・ペキンパー 情熱と美学没後30年を経た今もなお、その妥協のない徹底した映画監督としての姿勢も相俟って、世界的に多くの著名な映画人に影響を与え続けている。ラフ&タフ(粗野で無頼)な監督としていまや伝説となっている彼の人生を、当時の貴重な映像や本人のインタビューフィルム、アーネスト・ボーグナイン、ジェームス・コバーンらペキンパー作品の出演者らによる証言などで紐解いていく。

その肖像は悲劇と喜劇、成功と挫折、そして愛に満ちたものだった・・・

映画を見る前に知っておきたいこと

サム・ペキンパー監督の出世作

“血まみれのサム”と恐れられ、“バイオレンスのピカソ”と賞賛されたバイオレンス映画の巨匠サム・ペキンパー監督の出世作となった二本目の長編映画『昼下がりの決斗』(1962)は、意外にも西部劇であった。それは二人の年老いた西部男と消えゆく西部を感動的に描いた作品で、彼の父親へのオマージュであった。この作品は西部劇の最高傑作のひとつとされ、才能ある監督としての地位を確立した。

この成功によってペキンパーは、1963年には人気監督の一人となった訳だが、翌年にはトラブルメーカーの一人としてブラックリスト入りしてしまうのだが・・・

こうした作風の変化からも“バイオレンスのピカソ”と呼ばれたのが分かる。ゲルニカなど後期の作品のイメージが強いためあまり知られていなかったりもするが、意外とピカソも初期は写実的な作風だった。その変化の様子は通じるものがある。いつの世でも天才と称されるのはこういう人物であった気がする。

サム・ペキンパー監督の復帰作

トラブルメーカーの一人としてブラックリスト入りした後のサム・ペキンパー監督は、次の作品『ダンディー少佐』の予算が不意に30%削減され、それから数か月後、ペキンパーは『シンシナティ・キッド』に取りかかったものの、たったの4日で解雇され、その先何年も監督の仕事につけなかった。

そして1968年、ようやくチャンスが巡ってきた。その復帰作となったのがまたしても西部劇であった。この『ワイルドバンチ』という作品は、サム・ペキンパー監督の出世作『昼下がりの決斗』と同じ西部劇でも、その内容はまったく別のものだった。時代に取り残されたアウトローたちの壮絶な最後を描いた西部劇という内容は、どこか自身の境遇を投影しているようにも感じる。そして、そのどぎつい暴力描写は痛烈な批判を受けた反面、彼の天才監督としての名声を不動のものにした。ここからが、サム・ペキンパー監督の現在の評価へと繋がっていく。復帰作にして、本当の意味での出世作だったように思う。そして、ここから『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード』(1970)、『わらの犬』(1971)、『ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦』(1972)、『ゲッタウェイ』(1973)、『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(1973)と、彼の黄金時代が始まった。“血まみれのサム”や“バイオレンスのピカソ”と言われ出したのはこの頃だ。

そしてハリウッドを代表する監督になった後は、シリアスドラマや詩に関心があったにもかかわらず、映画界は彼を〝粗野で無頼の(ラフ&タフ)映画監督”とみなしていて、アクションもののオファーしか来なくなった。これは売れることによってアーティストが陥る典型的な罠だが、彼はそこからコカインに溺れ、自らの才能と生活を破壊していった。

1983年、彼はすっかり立ち直ったことを証明してみせた。『バイオレント・サタデー』を期限どおりに予算内で完成させたのだ。だがもはや遅すぎた。彼はすでに健康を害していたのだ。1984年12月28日、サム・ペキンパーは心臓発作で亡くなった。

僕はアーティストのこういう生き方は嫌いではない。本当に感情のままに生きたようだし、それはアーティストとして必要な部分だ。刹那的で自分には到底真似できない生き方に憧れさえ抱いてしまう。幸せかどうかすら、価値のないことのような生き方だ。単純にかっこいいと思う。

-ドキュメンタリー, 洋画

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