映画を観る前に知っておきたいこと

【セッション】映画評論家とジャズミュージシャンの評論戦!

投稿日:2015年4月23日 更新日:

セッション 映画

事の発端は、ジャズミュージシャン菊地成孔さんが映画『セッション』を酷評したことから。それを見た映画評論家で映画秘宝の創刊者である町山智浩さんが憤慨、炎上に至る。面白そうだったので見学してきた。

※ネタバレというか、セッションの見方をある意味強制してしまう一面が少なからずあるので、セッションを見てない人は読まないでスルーして欲しい。

リンク先はどれもかなり長文なので、二人のやり取りを読もうと思う人は2,3時間は覚悟して読むべし。以下時系列。

菊地成孔さんの酷評
 「セッション!(正規完成稿)~<パンチドランク・ラヴ(レス)>に打ちのめされる、「危険ドラッグ」を貪る人々~」

それに対する町山智浩さんの反論
 菊地成孔先生の批評について

菊地成孔さんのアンサー
 町山さんにアンサーさせて頂きます(長文注意)

町山智浩さんのアンサー
『セッション』さんのアンサーへの返信

やり取りの顛末

平行線の二人

町山さんの最後のアンサーの通り、この話はジャズを守ろうとする側とセッションという映画を守ろうとする側の平行線。セッションを見て『音楽の力はそんなんじゃねえ!』と憤慨する菊地成孔さん。一方、音楽の素晴らしさを体現している素晴らしい映画とする町山智浩さん。後に町山さんは菊地さんの立場に立って考えを改めているが、おそらく二人が共感のもとに手を取り合える事はないだろう。

平行線の正体

なぜならば、菊地成孔さん自身も言及している通り、菊地さんの言う音楽の”平和の強制力”としての力は音楽に救われたことがある奴にしか分からない。この映画を見たジャズ・ミュージシャンはみんなアンチの立場に立つと菊地さんは言っているが、それは彼らが”音楽に救われたことがある奴ら”だからだろう。その経験があるかないか、それがこの平行線の正体だ。

”音楽による魂の救済経験”の平行線を越えることは出来ないというのは、もちろん菊地さんご自身が身に染みてご存知のことと思う。それは菊地さん本人が自身をマイノリティと表現していることから見て取れる。だが、それでもこの様な長文を、わざわざ長い時間を割いてしたためてまで、菊地さんはメディアを通して何を伝えたかったのだろうか。

菊池さんが言っていること

これは飽くまで僕個人の解釈で、菊地さんの言うことを全て理解しているとは思えない。人生の大先輩であり、実績も権威も比べ物にならないし、あの文面を読んで僕は菊地成孔を尊敬している。なので、菊地さんの言葉ではなく僕の言葉として読んでもらいたい。

菊地さんは『セッション』を「マーケットリサーチばっちりの現代駄菓子」と表現した。言うまでもなく皮肉。「分かりやすい、食べやすいものに食いつく現代の民衆にぴったりのクソ映画」。そしてこの映画を食べやすくしているのは最初にキツイ一発を食らわせるからだと言う。一発食らわせてわけわかんなくしてしまえと。そういう意味での「パンチドランク・ラブ(レス)」というタイトルで、あれやこれやとマニアックなジャズ話を長々と書いているが、菊地さんの言いたいことはつまり『セッション』は映画の中のジャズのあり方がクソだ、ということと解釈する。

この話の着地点

こんなクソみたいなジャズに踊らされてんじゃねえよ。そして、みんながそのクソみたいなジャズに踊らされているのは、最初に食らわせられたパンチにやられてるからだろ、と。町山さんはその点には共感の立場を取り、その上でこの映画の攻撃力を高く評価している。菊地さんも町山さんからのアンサーでこの映画に愛がないのは監督が音楽に救われていないからだと理解する。こうして二人のやり取りの中で『セッション』は”音楽に救われなかった映画監督が描いた暴力的な音楽映画”という新しい視点を得る。

客観的な視点から野次馬してみて言いたいこと

結果的に『セッション』は救われている

そして、菊地さんがこの映画を見て大暴れしたことで初めて、『セッション』が傑作か名作かどうかということよりも、『セッション』という映画が成し遂げたことにスポットが当てることができる。愛のある見方をすれば、この映画は世界中にジャズ論争を起こす起爆剤として十分に役割を果たした。

菊地さんはセッションを媒体として刺激を受け、自身の音楽哲学を展開することが出来たし、町山さんは菊地さんとやり取りをすることで『セッション』を新しい視点で見ている。そして、それにたくさんの人が刺激を受けてレスポンスをしている。僕はと言えば、二人のやり取りを通じてジャズの文化背景や映画の見方として新しい視点を学ぶことが出来たし、至れり尽くせりだ。

『セッション』は間違いなく現代のジャズ界に一石を投じる凄まじいパンチ力を持っている。どうしようもなく攻撃的で刺激的でしかない「パンチドランク・ラブ(レス)」は、菊地成孔の言葉を初めとする多くのジャズ・ミュージシャンのアンチの姿勢によって救われたのだとさえ思う。少なくとも、僕にとっては。

そうして二人のやり取りを野次馬して、何事にも視点って大切だなとしみじみと感じ入るのでした。

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