映画を観る前に知っておきたいこと

【蜃気楼の舟】現代の「生の劣化」を感覚的に伝える

投稿日:2015年12月18日 更新日:

蜃気楼の舟

東京から身寄りのない老人たちを集め、住居を斡旋して世話をする代わりに生活保護費をピンハネする「囲い屋」の青年がホームレスとなった父と再会し、自身の欠落を問うために父を乗せ車を走らせる。現実と幻想を揺れ動くドライブの中で訪れた廃墟には母親の幻影がさまよっていた……

日本における生の劣化をテーマに描いた意欲作。ひきこもりの青年を描き、国内外からの高い評価を得て、異例の大ヒットとなった前作『今、僕は』から、更なる飛躍をした竹馬靖具監督の新境地。坂本龍一がテーマ曲を手掛けている。

現実と幻想が混在する不思議な世界観は、観客の感受性にそのまま訴えかけ強いイメージを植え付ける。そのイメージは僕たちの生が劣化する前の輝く原風景と重なっていく。

東欧最大の映画祭、第50回カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭に正式出品作品。第26回シンガポール国際映画祭正式出品作品。

  • 製作:2015年,日本
  • 日本公開:2016年1月30日
  • 上映時間:99分

予告

あらすじ

「うちには暖かい布団もあるし、おいしいお酒もありますよ。」

東京からホームレスの老人たちを連れてきて、住居を斡旋し生活保護費をピンハネする若者「囲い屋」。しかし、実際にホームレスたちが住む場所は劣悪な環境で、彼らはモノのように扱われた。蜃気楼の舟そんな「囲い屋」として生きる男は、母親を亡くし、父に捨てられた過去を持つ。友人の誘いから「囲い屋」を始めることとなったその男は、ホームレスたちを食い物にすることにも何も感じることなく、流されるように日々を送っていた。

一方で、その日常とは別にもう一つの世界が存在していた。冷たく静寂に満ちた幻想空間を得体のしれない引力に導かれ、彷徨い歩く男。それは、果たして彼の夢なのか?それとも記憶の残像が見せる幻なのか……?男を照らす2つの世界があった。蜃気楼の舟そんなある日、男の欠落に気付く謎の男・ミツオは、男に「父親に会いたくないのか?」と訪ねてくる。そして、男はいつものように東京から連れて来たホームレスの中に幼い頃自分を捨てた父を発見する。良心の呵責も感じなかった男の心は初めて揺れ動いた。その瞬間から、現実の世界ともう一つの幻想の世界が交錯し始める。男は父を車に乗せ、「囲い屋」を飛び出した。蜃気楼の舟現実ともう一つの世界の間を揺れ動くドライブの中で男は自身の欠落を問うことに。そして、父と訪れた廃墟には、母親の幻影がさまよっていた。現実と幻想の狭間を航海する一艘の舟の意味するものとは……?

映画を見る前に知っておきたいこと

本作で描かれる「生の劣化」とは?

この映画が伝えようとしていることは一体何だろうか?一言で表現するなら「生の劣化」だが、それは現代の社会問題としては「囲い屋」の青年やホームレスの老人たちという本作の題材から見て取れる。しかし、「生の劣化」は個人レベルでも僕たちの生活に暗い影を落としている問題でもある。

この「生の劣化」というものを都会で一人暮らしをしたことがある人は感じたことがあるのではないだろうか。竹馬靖具監督が本作を撮るきっかけとなったのは、東京での暮らしの中で心が渇いていったことだと語っている。曖昧な夢を抱えて上京して、当面の生活のためアルバイトをしていた竹馬監督は、がむしゃらに働くうちに最初に描いた夢を忘れ、ただ稼ぐことが目的のようになっていった。そして人並みの生活を手に入れた後、竹馬監督は東京という街に飲み込まれていくこととなった。溢れる物は欲望を刺激し、一つの欲望を満たしてもまた次の欲望が顔を表す。際限のないその連鎖は次第に自分自身の存在価値を見失わせた。そして、自分すら物のように感じるようになった。

僕も東京一人暮らしというのを長いことやっていたので、この感覚はよくわかる。目の前の生活に追われ流されながら、気が付けば長い時間を浪費していた。僕の場合は、そこから抜け出せたのは東京を離れてからだった。結局、東京にいながらその流れを自分の力で止めることはできなかった。田舎に帰った後、東京の溢れる人が僕から他人への興味をなくさせ、溢れる物が生活の中で欲望を満たす存在であったことをようやく知ることとなった。それは自分がこうありたいと願った人間とはずいぶんかけ離れていた。これが竹馬監督の言う「生の劣化」だと思うが、これは一つの例でしかない。おそらくもっと色々な状況の人に起こっているはずだ。

また、この問題を「生の劣化」と表現したことで解決のために必要なものが見えてくる。そう、これは劣化であるのだから劣化する前の状況に戻さなくてはいけない。しかし、それに必要な感覚は、まだ残されているであろう生命の輝きの源泉とでも言える、ある感覚、強い想い、美しさ、原風景、原体験、もしくはそれらがすべて合わさった複雑なイメージなのだ。この曖昧なものを表現しているのが本作である。よって、「生の劣化」を体感していない人には届かない作品かもしれない。

登場人物名を伏せる手法

これだけ感覚的なメッセージを強く発信できた要素として、竹馬監督が本作であえて登場人物の名前を出さなかった手法をとったことが大きい。主人公も「囲い屋」の男として描かれ、その他の登場人物もホームレスの父親、青い服の女、白い服の女という具合に表現されている。例外としてミツオという人物は登場するが。

この手法によって、映画の焦点を物語ではなく、テーマの方に持っていくことができる。そして、作品に込められた強いメッセージを伝えることができるのだ。

2015年はこの手法に近い映画を多く見かけた。10月に公開された『ボーダレス ぼくの船の国境線』だ。この作品では、戦争により緊迫するイランとイラクの国境地帯という設定はあるものの、時代設定や登場人物の国籍、年齢について殆ど語られない。もう一つは9月に公開された、ロシアの新鋭監督による『草原の実験』だ。この作品も国、時代、登場人物名がないうえ、セリフまでもない。そして、12月公開の『独裁者と小さな孫』も国名も登場人物名も伏せて描かれている。これらの作品に共通するのが、テーマに焦点を当てた強いメッセージ性を要していたということだ。

個人的には今年おもしろかった作品ばかりであったが、そこに込められたメッセージは戦争や平和であり日本人の僕たちにとっては具体的なものではなかった。それに対して本作『蜃気楼の舟』で描かれる「生の劣化」は僕たちの日常にある問題なので、この手法の破壊力を堪能できるはずだ。2016年の初っぱなにいきなりこの手法を使った邦画に出会えたことは驚きでもあった。

チープな表現になってしまうかもしれないが、洋画のような作品だ。洋画といっても様々な国の映画があるのでおかしな言い方になってしまうが、感覚的には音楽でよく言う褒め言葉で「洋楽みたい」というあれに近い。テーマやメッセージ性だけではなく、幻想的な絵もそう感じさせた。

竹馬靖具監督にとって本作は2作目となる監督作品だが、日本の新鋭監督という評価がふさわしいと思う。1作目『今、僕は』(2009)で、すでに海外で高い評価を受けているのもわかる気がする。しかもこの作品では監督・脚本だけではなく、主演まで務めているから驚きだ。間違いなく日本の新しい才能である。感覚を大事にするアート側の監督として、日本を代表する監督になってほしい。

竹馬靖具監督デビュー作『今、僕は』

少し話が出たので2009年の竹馬監督デビュー作『今、僕は』をどんな映画か簡単に紹介しておく。本作とも通じる世界観があり、この作品を知っておけば一応竹馬監督作品はすべてなので、現段階ではどんな作風なのか知ることができる。本作とはまた別の手法だが、劇中に音楽を使わないことでリアリティを演出しており、フィクションながら観客の感性に訴えかける映画だ。ニートの若者が抱えている得体の知れない感情を感覚的に伝えてくれる。ヨーロッパの映画祭で高い評価を受けた作品だ。海外で評価されながらも、竹馬監督が描くのは現代の日本における問題である。気になった人はぜひ一度見てほしい。

『今、僕は』あらすじ
20歳の悟は、母親と二人暮らしの引きこもりだった。テレビゲームと漫画雑誌、ジャンクフードと寝ることだけが彼の現実だった。ある朝、悟の前に母親の友人である藤澤が現れ、悟を外に連れ出そうと強引に職場に連れて行く。しかしそのことで悟の社会的能力の欠落が浮き彫りとなってしまうのだった。悟を救おうとする藤澤の必死の努力や、仕事を続けていくことの現実、予期せぬ悲劇が、徐々に悟を狂気へと押しやっていく。あの日得体の知れない“憤怒”にかられて母に暴力をふるった。本格的に出口を失った若者の真の再生はやってくるのか。
『今、僕は』予告編

-ヒューマンドラマ, 邦画
-,

執筆者:


comment

メールアドレスが公開されることはありません。