西アフリカに位置するマリ共和国の古都ティンブクトゥ。世界遺産にも登録されたこの地を舞台に、イスラム過激派の圧政と対峙する家族の姿を描いたヒューマンドラマ。
フランスのセザール賞で最優秀作品賞を含む7冠を獲得し、本国では100万人を動員した話題作だ。
監督はモーリタニア出身で自身もイスラム教徒であるアブデラマン・シサコ。イスラム過激派が国際的に騒がれている今、そのリアルを映画に描き出す。
- 製作:2014年、フランス・モーリタニア合作
- 日本公開:2015年12月26日
- 上映時間:98分
- 原題:『timbuktu』
Contents
- 1 予告
- 2 あらすじ
- 3
映画を見る前に知っておきたいこと
- 3.1 実際に起きた事件と反暴力の姿勢
- 3.2 この映画が持つリアル
予告
あらすじ
アフリカ、マリ共和国のティンブクトゥの近くの街で暮らす家族がいた。父ギタン、母のサティマ、娘のトヤと、牛飼いの孤児イサン。4人は貧しいながらも、慈しみで支えあい幸せな生活を送っていた。
父はいつも音楽を奏で、家族は歌を歌った。
ある日、突然イスラム過激派のジハーディスト(聖戦兵)が街を占拠、厳格なシャリア(イスラム)法による恐怖政治で住民たちを支配していく。
音楽、たばこ、サッカーなどの娯楽はもちろん、笑い声や不要な外出までも禁止され、住民たちは毎日のように繰り返される不条理な懲罰に耐える生活を強いられるようになる。それでも人々は、ボールを使わずにサッカーをしたり、隠れて音楽を楽しんだりと静かに抵抗するのだった。
そんな抵抗も空しく、過激派の恐怖政治はより圧力を増していく。歌を歌えば鞭打ちの刑に処され、年端もいかぬ少女は知らない男の妻にされ、恋をすれば公開処刑に処される。
トヤの家族は街の混乱を避け、8頭の牛を連れて郊外へ避難することに。ギタンの牛の群れを放牧しているイサンは、幼いながらも誇りをもって仕事をしていた。中でも、GPSと名づけられた牛には、特別の愛情を注いでいた。
しかしある日、GPSは漁師のアマドゥという男によってイサンの目の前で殺されてしまう。「川に仕掛けた網のエリアにGPSが侵入した」というのがその理由だった。
家族には動揺が広がり、ギタンはアマドゥと対峙するため川へ向かう。「武器は要らないわ。話し合うべきよ」という妻サティマの言葉を聞かず。
このことをきっかけに、家族の運命は思わぬ方向へ転がり始めることになる。
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映画を見る前に知っておきたいこと
実際に起きた事件と反暴力の姿勢
セザール賞7冠、モーリタニアから初のアカデミー賞外国語映画賞ノミネート、カンヌでは批評家の間でパルムドール大本命と噂され、フランスでは「これこそ我々のパルムドール!」と観客から大絶賛を受けたエピソードなど、この映画について語るべきことは多くある。
しかし最も注目されるべきことはアブデラマン・シサコ監督がこの映画を撮るに至った経緯と彼の身の上だろう。
物語はフィクションだが、映画で語られる事件は実際に起こっている事件。アブデラマン・シサコ監督は2012年にイスラム法によって事実婚の関係にあったカップルが石打ちの刑で殺された事件に触発されて、この映画の製作を決めたという。
知らなければ衝撃的な内容だが、過激派によるイスラム法ではこれが当たり前の話だというから恐ろしい。
例えば性犯罪にあった女性さえも「女性が悪い」ということになってしまい、家族の手により処刑されることもある。そうすることで、「家族の名誉を守った」ということになり、家族は無罪放免になるという。
彼らの法は僕らの理解の範疇を超えすぎていて驚愕する。恋をしたら死刑だなんてギャグみたいな話だが、この映画はそれが現実に起こっていることを伝えるのだ。
そして、アブデラマン・シサコ監督自身もまたイスラム教徒であることも付け加えて、改めて語っておかねばなるまい。自身もイスラム教徒である分、ともすると“狂人の宗教”と思われている節もあるイスラムについての理解も深い。
その上で監督は、この映画を暴力をはじめとするあらゆる野蛮な行為へ反対するために制作したのだと語る。
「イスラム過激派が振るう理不尽な暴力と、映画という手段で戦うイスラム教徒」という構図は、この映画を見る上でまず知っておきたいことである。
このことは、後述するこの映画のリアルさにも深く関わってくる。
この映画が持つリアル
9.11以降の映画を始めとする制作物の多くは、反テロへのプロパガンダとして制作、利用されることも少なくない。
そして登場するテロリストは、人とは思えない残虐な行為を行う狂人―。悪役として非常に分かりやすく描かれる。
しかし、この映画では過激派の人もまた“人”として描かれている。監督は“彼らもまた人である”ということを非常に重く見ているようだ。
「暴力は人が行う行為である」ということは、この映画における重要なテーマでもある。
イスラム過激派が聖戦と呼ぶ一連の国際問題は、もはや誰の為の戦いなのか、何のための戦いなのか、なぜ始まったのか、行き着く先に何を求めているのかもよく分からなくなってきている。
問題はどんどん複雑化していていき、慢性的に世界中に、まるでヘドロの様に押し寄せている。イスラム過激派がイカれたテロ行為を繰り返しているというだけの問題では決してないのだ。
僕はこの問題は「テロリストが悪い、だから撲滅しよう」ではもう絶対に終わらないと思っている。
一体何が起こっているのか。
渦中の人は何を思うのか。
『禁じられた歌声』は、今世界中の人が漠然と考えているこの問題の一面を、人間が起こす現象としてリアルに映し出す。
今まさしく起こっていること、そして知られざることを撮った作品であり、“見たい”ではなく“見るべき”映画、そしてまた考えるべき映画だと僕は思う。