映画を観る前に知っておきたいこと

父の秘密
解説/暴力に対する価値観を問う

父の秘密

狂気は躊躇を知らない

最愛の妻ルシア(スペイン語で“光”の意)を事故で失ったロベルトと娘のアレハンドラ。新たな場所に光を求めた父娘を不条理な暴力が呑み込んでいく。

メキシコの新鋭ミシェル・フランコが長編わずか2作目にして、カンヌ国際映画祭「ある視点」部門グランプリを獲得した鬱々たるヒューマンドラマ。腹に鉛を仕込まれたような衝撃のラストは映画史に残らずとも、観る者の記憶から消えることはない。

主人公のアレハンドラを演じたのは、ギジェルモ・アリアガ監督の『あの日、欲望の大地で』(09)で鮮烈なデビューを飾ったメキシコ人女優テッサ・イア。アレハンドラのクラスメートには実際の彼女の友人たちがキャスティングされ、映画に自然なリアリティをもたらした。


予告

あらすじ

最愛の妻を事故で亡くした喪失感から抜け出せないロベルト(ヘルナン・メンドーサ)と娘のアレハンドラ(テッサ・イア)。父娘は新しい土地でやり直すため、高級住宅街プエルト・ヴァラルタからメキシコシティへと移ってきた。新しい学校に馴染み始めるアレハンドラとは対照的に、娘に相談もなく勤め先のレストランを辞め自暴自棄な生活を送るロベルト。悲しみから立ち直れない父を気にかけ、母の服を着て大人びた振る舞いを見せるアレハンドラにも、彼は戸惑いを隠せなかった。

父の秘密

Después de Lucía © 2012

ある時、同級生の別荘に招待されたアレハンドラは、酔った勢いでクラスの人気者ホセ(ゴンザロ・ヴェガ)と一夜限りの関係を持つ。ホセがその行為の一部始終を携帯で撮影しているのを知りながら、アレハンドラもその場の雰囲気に流されてしまう。翌日、別荘から戻ったアレハンドラはその動画が学校中にばら撒かれていることを知る。ホセは携帯を誰かに盗まれたとアレハンドラに弁明したが、彼女だけが苛めのターゲットとなってしまった。

父の秘密

Después de Lucía © 2012

ホセに好意を寄せるカミーラは仲間と共に、アレハンドラを執拗に追い詰めていく。カミーラたちに無理やり髪を切られたアレハンドラは全てを捨てて逃げ出そうとするが、父に心配をかけまいと一人耐えることを選ぶのだった。しかし、父に苛めを悟られないように参加した臨海学校で、彼女はクラスメートの歯止めを失った暴力にさらされることに……


解説

事故現場の回想シーン以外は全て固定カメラからのショットで、とことん写実的に見せる独特の語り口。新鋭ミシェル・フランコは、それが父娘の日常であろうと、凄惨な苛めの現場であろうと同じように淡々と切り取っていく。中でも、フランコのフィクス(固定カメラでの撮影)が最も威力を発揮するのが映画のラストシーンだ。

沖へと出るボートに取り付けられたカメラが、命乞いをするホセの表情さえほとんど伺えない俯瞰した構図から、無感情にそこにある事実だけを映し出す。まるで殺人現場に居合わせてしまったかのような後悔さえ与え兼ねない衝撃的な演出。フランコは最後まで徹底して映画を俯瞰させることで、観る者が本能的に感じる暴力への価値観を吐き出させる。

暴力に対する価値観を問う

父の秘密

Después de Lucía © 2012

映画はロベルトが車の修理工場を訪れた場面から幕を開ける。綺麗に修理された妻の車を受け取ったロベルトは、そのまま車を通りへと走らせる。しかし、一つ目の信号に引っかかった所で、突然車を乗り捨てどこかに歩き去ってしまう。妻を失った悲しみからくるであろうその行動。そこにある衝動性こそが、ロベルトの中に潜む狂気であり、決して娘には悟られたくない父の秘密である。

始めたばかりの仕事を突然辞め、些細な言い争いから暴力沙汰を起こすロベルトの突発的な行動は常に理性を欠いていた。そのため、娘が苛めの被害者であることを知った時も、彼は躊躇なく怒りの矛先をホセに向けることになる。しかし、本当にホセは真っ先に怒りをぶつけるべき相手だったのか。フランコが差し出すわずかなヒントに目を凝らすと、苛めの元凶が誰だったのかが浮かび上がる。

別荘から帰る車内で、カミーラはアレハンドラに対して一瞬だけ敵意を覗かせる。カミーラの苛立ちが垣間見えるその描写が、彼女がすでにアレハンドラとホセの動画を見ていたことを物語る。そう、カミーラこそが動画をばら撒いた張本人である。加えるなら、アレハンドラが臨海学校から消えた後、一人態度を豹変させたハビエルがDVDを届けた苛めの告発者だろう。つまり、ホセは一貫して苛めの傍観者だったのだ。

ならば、まず裁かれるべきはカミーラだったのか。いや、社会規範に沿うならばアレハンドラを陵辱したハビエルが最も罪深い。しかし、フランコの透徹した眼差しは何者を咎めることもしない。彼はハビエルの中にさえ、仲間内で一人“ファッテイ(でぶ)”とあだ名され、クラスのヒエラルキーの下層にいた苦悩を匂わせるのだ。飽くまでフランコが伝えるのは、日常に潜む悪意なき暴力の連鎖が、やがて他者の命を奪う行為にまで行き着くという事実だけである。

苛めの傍観者でしかなかったホセが、ロベルトによって海に放り込まれる衝撃の結末。そこに不快感を催すのか。それとも溜飲を下げるのか。この映画の余韻こそが、決して社会規範では測れない暴力に対する個人の価値観なのだろう。

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